避難所での話

先週末、坂茂さんの主宰するVAN(Voluntary Architects’ Network )が行った仮設住宅(工房)の設置で珠洲市と輪島市へ行ってきました
所属している石川県インテリアコーディネーター協会が昨年開催した講演会に坂茂さんをお招きして、建築への想いや5月に起きた地震の復興支援をしているというお話を伺っていました
その時に「地震で人は亡くならない、地震で建築が壊れて人が亡くなるんです」とおっしゃっていました
そして年があけて、まさかまさかの大地震が起き、協会で何か支援を・・・!となった時に「VANさんに協力しよう!」となったのがご縁です

支援へ行ってきた今は「行って良かった!」と思っていますが、実は・・・

協会が被災地への支援を決めた時、私は自分の体調の悪さや、一部損とは言え自分も被災したり避難したりしていたので、被災地支援に参加を・・・と言われた時は後ろ向きな気分でした
まだまだ余震が続いていた時でしたし、私も地震に恐怖を感じていたし、娘は私以上に怯えていたし、揺れで落ちてきた品物を拾っても拾っても余震で落ちるし、冷蔵庫や食器棚は地震対策でテープだらけだし・・・とても他者への支援に対して前向きな気持ちになれませんでした
被災地の方はもっと大変な思いをしているのに・・・!協会の中で被災している人も頑張ってるのに・・・!
そう思って何度も自分を奮い立たそうとしても、その気持ちは持続しなくて、一時は支援グループには含めないでもらおうかとも考えていました
それでも、事務局長という役職があるので活動しないわけにもいかず、心を無にしてやり取りを聞いていました

地震の時、立ち上がれない程の揺れに襲われ、「家が壊れそう!」という恐怖の後の、大津波警報の警報音
避難所へ行こうと思っても、道路には「我先に!」という方ばかりで車列に入る事も難しい。。。避難先の駐車場でも「我先に!」という感じで、奥にある駐車場ではなく出入り口そばに駐車する多くの車。。。
少しでも高いところで過ごすため、普段は解放していない校舎の屋上に出してくれと訴えている人たち。。。
まわりへの心配りをしている方がほとんどでしたが、余裕がない人たちも一定数いたと思います

こんなに命の危険を感じた事は、これまでに無かったですが、私以上に10歳の娘が怯えてしまっていて。。。
暖房の入った暖かい部屋に居てもブルブルと震え、いつもお喋りなのに一言も話さなく、家から持ち出したぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた姿を見て、子供たちだけは守らなければ!という気持ちが私を平常に保ってくれていたと思います
(娘は今も学校へ出かける以外はぬいぐるみと共に生活しています)

地震発生時、娘は学校の宿題で書き初めをしていました
キッチンのカウンター上から色んなものが落ちてきましたが、書き初めは無事でした

我が家は次男の通っている同じ町内にある高校の最上階の教室の椅子に座って過ごし、横には次男の同級生のご家族が居たので、話をしながらもスマホでニュースを見たりして過ごしていましたが、数分おきにやってくる余震の度に小さな悲鳴が聞こえ、ワンセグのスピーカーからは津波注意のアナウンスもずっと聞こえていました
そのうち19時すぎに「ここは避難所ではないので、備蓄のものがありません」と校内放送でアナウンスが入り、それを聞いた人が少しずつ教室を出ていかれました
後日談ですが。
PTAの仕事で学校に行った際に先生に聞いたところ、本来はちゃんと金沢市の避難所に指定されているにも関わらず、その知識を持つ人が校舎内にいなかったため(元旦でしたしね・・・)間違ったアナウンスを流してしまった、という事でした
金沢だけではないかもしれませんが、普段の避難訓練では学校で「地震が起きたので机の下に隠れましょう」といって机の下に隠れたあとに運動場へ行き人数確認をする、という訓練しかしていないので、その後が大事だったなんて!と感じていました
この時に高校で配られたお水は避難時用の備蓄品ではなく、高校生が使う自販機用ストックを配っていたという事も後から聞きました
それ程いろんなものが混乱していました

出ていく人たちを見ながら、同級生家族と「避難所を移動しようか?」と相談しつつ、満潮時間まであと10分ほどの段階での潮位データを見ると心配していた程ではなかったので、一旦食べ物を取りに家に帰る事にしました
家に着くころに丁度満潮時刻となりましたが、最高位で90cmとの事だったのでそのまま家で夜を明かす事にしました
幸いな事に電気も水道も通じていたし(水を出したら茶色い水が出てきて「やばい!」と思ったのも瞬間綺麗な水に戻りました)もし明日からも避難が必要になった時用に持ち出し品を準備しながら、割れたり倒れたりしたものを片付け、テレビや冷蔵庫などにテープを貼ったりしながら過ごしました

ダイニングテーブルにあったコーヒーは揺れで飛び出しまわりは大惨事に。。。
そして行方不明だったピーラーがどこかから出てきましたwww

落ち着いたのが23時すぎでしたが、大津波警報の警告がずっと続いていたのでテレビや照明はつけっぱなしで、リビングに布団を持ってきて、家族5人でリビングで休む事にしました
ですが、少し眠っては余震で目が覚め、金沢港の潮位計を確認して、と繰り返しているうちに外が明るくなってきたなという感じでした
深夜2時くらいに警報が注意報に変わり、10時頃に注意報が解除され、少し気持ちが落ち着きました

元旦の翌日という事で、我が家は食べ物はそれなりにあったから特に慌てて買い物に行ったりはしませんでしたが、スーパーやコンビニから物がなくなっている、という話はあちこちから聞こえてきました
水は2Lのペットボトルが6本に500mlのボトルが数本、非常時用のα米等も少しあったし、何より電気も水も問題なかったのでのんびり構えていましたが、ニュースを見た県外に住む友人達から「水を送ろうか?」「食べ物を送ろうか?」という連絡をたくさんいただき、本当にうれしかったです

その後徐々に生活を戻しつつありましたが、余震の度に涙が出たり、気持ちが前向きになれないまま、協会の支援についての話し合いが1/5から始まりました
それまでも被災者に提供できるカーテンはないか?というような問い合わせがあったりしましたが、VANさんが避難所支援に入ると連絡があって、バタバタと動き始めました
最初は金沢市内の2次避難所へのパーティション設置の手伝いができないかと問い合わせがあったのですが、私は仕事があったという事もありますが、それよりも、避難所へ支援に行くよりも早く家に帰って家族と過ごしたい気持ちが強く、お手伝いには行けませんでした
その後坂茂さんを囲んで、奥能登の支援プランを聞く機会があり、坂さんのお話を聞いている中で「建築の仕事をしている責任」みたいなものがむくむくと湧いてきて「少しでも力になりたい!」と強く思えた一日になりました
その時は、人を繋ぐというご依頼だったので、動きやすかったという事もあったかなと思います
震源に近い場所で過ごした方たちの話を聞く度に、その方たちのフォローをしたい!という気持ちがどんどん育っていきました

この記事を書いた人

シオムラアキ